Archive For The “Exhibitions” Category
1986年2月4日~9日
ルオーは1871年コンミューンの動乱中のパリに生まれる。14才でステンドグラスの職人となるが1890年(ゴッホがピストル自殺)国立美術学校に入学しギュスターヴ・モローに師事。モローの死後、モロー美術館の館長となる傍ら絵画の制作に専念する。1958年87才で世を去るまで今世紀版画の最高傑作と言われる。「ミゼレーレ」をはじめ多くの名作版画と油彩を残している。作品の多くは下層社会の人々に目を向け、ヒューマンに満ちた慈悲深い人間の心を表現した人物像が主である。ルオーの人間観(宗教観)を表わした奥の深い世界となっている。ルオーが去って30年近く経った今日でも時代や地域そして宗教を超えて我々の心に感動を与えている。今回はその代表的作品「ミゼレーレ」(1948年制作・銅版画)を中心に21点の作品を展示致します。
和宇慶朝健展
1986年1月14年~19日
ハードスーパーメタルの質感をベースにポップでウィットに富んだ版画作りを続ける和宇慶さん。セリグラフィー(シルクスクリーン版画)独特のあじを十分に生かした版面は無機質のクールな空間にホットなドローイングタッチが溶け合い、現代的な魅力ある版の世界となっている。今回は氏の近作の中から24点発表致します。
永原達郎展
1985年12月3日~8日
インドの風土の中に営々と立ち続ける古い寺院や神殿、一瞬が永遠であり永遠が一瞬であるかのように…、永原さんの絵を見ていると妙に哲学的な言葉が浮かんでくる。細部まで丹念に仕上げられ、計算し尽くされた画面は描かれたものをはるかに越えて見る側に強い精神性を誘発する。今回の作品は昨年インドを取材した中から締めくくるにふさわしい展示会になるかと思います。
山城見信展
1985年11月26日~12月1日
僕たちは何処へ行くのだろう、僕たちはどこから来たのだろう、僕たちはどこにいるのだろう。すべての青が画布に吸い込まれ、かすかに色が見え始めてくるその瞬時、脈略もなく不意とそのような思いが、指の中をぬけていく。体があつくなってくる。そういう時だ。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに 何かとんでもないおとし物を 僕はしてきてしまったらしい
透明な過去の駅で 遺失物係の前に立ったら 僕は余計に悲しくなってしまった
谷川俊太郎の「かなしみ」一篇。僕にはウタをうたうことはできないが、時にはうたってみたいと思う時もある。配色のかわった分、僕もかわったであろうか。 (漫々茅 山見)
屋富祖盛美展 -日常に埋れたコケテッシュな女たちのメッセージ-
1985年11月12日~17日
やや斜めを向きながら真正面に涼しげな視線をなげかけるモリミ氏の女性像。思い切ったディフォルメに施され、ファッショナブルにしてしなやかな肢体を見せつけるあやしげな女たち。モリミ氏の奇異な造形感な自在な構成力とみずみずしい感性に支えられ、その不均衡な姿勢も不自然さを感じさせない。見る者は日常では見ることの出来ない非日常の空間で不思議な魅力を持つコケテッシュな女たちに出会い、とまどいと眩感を覚える。そしてシュールなエロスの世界があることを思い知らされてしまう。
モリミ氏の造形はモジリアーニの影響を受けたのだろうか・・・。キュービスムを通り抜け、限りなく屈折して行く現代に透明な感性が支配する豊かなイマジネーションの世界をつくりあげた。正に日常人へのメッセージである。今回は、氏の近作の中から水彩を中心に24点展示致します。
真喜志勉展 -黒の沈黙からオフホワイトの余韻の世界へ-
1985年9月24日~29日
数年前、沖縄ジァンジァンにおいてスライドによるTOX・MAXの世界を見た。その時これまでの私の真喜志勉像が180度急転し、コーフンしたことを覚えている。
1号線を行き交う米軍車輌のナンバーリング、荷物パッケージ、金網ごしにファントムジェット戦闘機に見入るTOM少年、異国から入ってくるおびただしい量のアートフルな物体はTOM少年の感性を十分すぎるほど刺激した。スライドは氏の十代の頃から今日までに収集したグラフィカルな作品が延々と重ねられ、その終盤では、米軍家族舞台の廃屋がネガティブの画面として投影された。それは我々見る側に沈黙と思索をしいるかのように、幕は閉じた。おそらく氏はその時「戦後」をアーティストとして視覚的統括をしたにちがいない。私はシャイで真撃なアーティストに出会った悦びを感じた。
以後の氏の作品は黒の沈黙しきった画面とモダンな造形感を基調に、音像から画像へ、音楽メッセージを平面(絵画)世界へ、導入しようと試みた作品が多かったのではないだろうか。アドリブを利かせたさり気無い線と色彩は、チックコリヤのジャズフィーリングであり、パワフルにして繊細な構成はサッチモの肉声が聞こえる。その純度と完成度の高さは、正に氏の人格そのものであり、現代人、アーティストTOM・MAXではないだろうか。
氏の話によれば、今回の展示会で黒のシリーズや各アートの分野に与える影響が大きいと思う私にとって、今回の「黒の終結」は、次に何を生み出すか大いに楽しみである。
モーリス・ブラクマン展 -フランスの生んだ野獣派-
1985年9月7日~15日
モーリス・ブラクマンは20世紀の初頭フランスにおいて、マチスやルオー、ドランらと共にフォービスム(野獣派)の運動に参加した人として知られる。ピカソやブラックの主張するキュービスム(立体派)をあまりにも主知的で不毛であると非難し、一貫して激しく野生的な筆触で製作を続け、フォーブの孤塁を守り通した。1876年フランスに生まれ、青年時代はゴッホやセザンヌを崇拝し、ヴァイオリンを弾き、著述をし、自転車競走の選手でもあった。群衆と通俗的演劇を愛するデカダンな画家でもあった。1958年に82才の生涯を閉じるまで、フォービックな油絵とかなり多くの版画を制作している。ブラマンクの画風は、強い光の中で荒れくるう自然の風景を描いた作品が多く、野生的な荒々しい猛烈な筆致は強い感情の揺さぶりを受けずにはおれない。
今回の作品は、数多いブラマンクの版画の中でも傑作中の傑作といわれている1964年に制作(限定260部)された版画集「オートフォーリエ」(高貴な愚行の意)の内から30点のオリジナルリトグラフを展示致します。
フランシスコ・ゴヤ展 -スペインが生んだ近代絵画の先駆者-
1985年8月6日~18日
18世紀末は、庶民が初めて自らを生き始めた時代―ゴヤの版画を見ているとそう感じさせる。
「自分がある特定の思想を持ち、人間がそなえているべきある種の尊厳を守るべきだと信ずるようになった」(ゴヤが親友に宛てた手紙の一部である)1789年当時のスペイン王カルロス四世は、43才のゴヤを宮廷画家に任命した。しかし、時はフランス革命の年、ヨーロッパ諸国の王朝が哀退し、市民が自由思想を獲得していく攻防と危機の真只中。大病をわずらい聴覚を失ったゴヤは、その鋭い洞察力と深い思想性で当時の人々の無知、愚劣、悪徳、社会の偏見、悪習、嘘を版画でもって表現しきったのである。今回はその版画シリーズの中から1799年に出された有名なLOS CAPRICHOS(気まぐれ)の作品34点を展示即売致します。暑さ真っ盛りの沖縄、ゴヤ絵画のリアリズムの持つ普遍性はきっと皆さまの心に涼風をもたらしてくれるに違いありません。どうぞご高覧ください。
伊江隆人展 -子供の国発楽園行き―墨から版画(リト、エッチング)の世界-
1985年7月23日~28日
4,5年前、初めて伊江氏の作品を見た時、なんとダイナミックな画家だろうと思った。墨をたっぷり含んだ大きな筆で画面一杯に暴れまくった作品は、真黒い太い線で描かれ、力強く、大胆な躍動感をみなぎらせていた。墨象の抽象的作品を沖縄で見る機会があまりなかった私にとって、あのダイナミックな1000号の作品はかなり印象に残った。
その後の伊江氏の作品は「あかばなシリーズ」と「珊瑚礁シリーズ」が主だったように思う。近年の作品は、以前のあの大暴れの画面が少し落ち着き払ったような画面へと移行し、100号大の大作から小味のきいた小品に至るまで、そのテーマのもつ意味性に奥行きと深まりが感じられ、安定したフォルムと詩情を獲得したように見える。書道からスタートした氏が独自のフォルムを生みだすまでかなりの時間と研鑽を要したに違いない。最近はその安定したフォルムに多様なテーマの広がりが加わり、書道家というよりも造形作家としてのイメージが明確に見えてきたように思える。とどまることを知らない氏のバイタリティーが明確に見えてきたように思える。とどまることを知らない氏のバイタリティーのある創造欲は文字による書作と墨造形の世界と平行しながら版画への展開を試みる。版画作家の少ない沖縄にあって大いに期待を寄せる一人である。